境の坂井に咲く水守

むっつ

 瞠がはじめて聖なる三宮の古井戸を訪ったのは、冬も近づき、寒さも増してきた頃だった。
 六宮からの使者として、家臣の一人が坂井に辿りついたのは、昨日の午後のことである。瞠の『嫁入り』にも同道した、先代の頃からの老臣だった。瞠は御簾の向こうから彼を出迎え、兄君烏を通じて記録の全てを託し、ことはすべて滞りなく終わり。老爺はしきりに瞠の現状を気にし、心配をしたが、しばしの間の受け答えの末、夕も近いからと言って去って行った。
 そう長い時間ではなかったにしても、実家の人間との対面である。気を張った。それに加えて記録が見つかって以来のここ数日を、正殿にも参じず、食事も無理を言って東の対でとり、とにかく七宮と顔を合わせずに苦悩した疲れは、存外に彼の身を蝕んでいたらしい。
 ぱったりと床に臥し、そして変わらずに訪れた朝。瞠は、初めて境の坂井へ赴いた。
 夜明けて、まだそうたっていない時分である。早朝の空気は冷たく、きちりと装っていてさえ、冷気は肌をさす。侍従烏たちの姿は、夜分から夜明けにかけてはいつだって見ないから、きっと三宮の古井戸には、彼女一人がいるはずだった。
 の影越しにその姿を探せば、確かに七宮は、ひとり井戸のかたわらで佇んでいた。はじめて見る境界線上の古井戸には、二羽のからすが寄り添いあって止まっている。七宮は、そのかたわらで庭箒を手に、落ち葉を一か所に集めている。けれどもその表情は、どこか沈んだようにかたく、瞠は思わず「七宮どの」と彼女に声をかけた。
 足早に近寄ると、七宮はすこしばかり驚いたように、瞠を見ていた。
「東領へ帰ってしまわれたかと思っておりました。ずっと正殿にも、いらっしゃらなかったし」
「私に帰る先はないよ、七宮どの。最初にお会いした時、出奔してきたと申し上げただろう」
 瞠はこれまでとは装いを異にし、きちりと武家の男子らしく整えて。さすがに髪だけはそうやすやすと切るわけにもいかなかったから、高い位置でひとつにくくっていた。
「それに正殿に赴けなかったのも、記録書をすべて、書写せねばならなかったためだから」
 すると七宮は、安堵したように、ほうと息をつく。瞠はそのしぐさをうけて、ふたたび彼女が口を開くまえに「ひとつ、私は謝罪せねばならない」と、一歩、彼女に近づいた。
「私は、ただしく獣返りなのではない。獣返りを騙って、この神域に参ったにすぎない。あなたは、同胞だと喜んだかも、しれないけれど。そうではないのです」
 言い切るのに、どれだけの勇気を振り絞ったか。瞠が直ぐに見つめてたばかりをあかすと、七宮はその表情を、ゆっくりと動かして「でも」と、彼の黄金の髪に視線を遣る。
「……父はこの島国に漂着し、そして東領に辿りついた、北方のつ国人だったと。けれど私が生まれるよりも、家中の者に母の夫と認められるよりも前に死んだと。母から聞いたのは、それだけではあるけれど……彼女は狐に似ているとは言わず、常々私のことを父の子だから、父に似ていると言っていた。だからおそらくはそれが正しいのだと思う」
 それでも金の髪に、鋭い顔つき。すべては御祖の狐にも通じた。獣返りでなかったとしても、瞠は東領の血を継ぐ以上、利用価値はある。ならば実家においても、家中を乱さない限りは冷遇されることはないだろう。しかし異国の血筋というものは、いつの世も異質のくくりであったし、瞠が由姫の息子だという事実も、すべて家中を乱すものでしかない。当代の領主には、ひとり娘の姫しかいないのだ。父が不確かであったとしても、女系の男子がいるのならば、後継にどうかという声は必ずあがる。
 ゆえに瞠は、母の教えのとおりに、異国の血を引くこどもではなく、領主の血筋ではあるも獣返りたる姫君だ、などと。そのような言葉でまことを騙り封じ込め、いつか価値をなくして東領から手放される日を待っていた。そして機が熟し、こうして境の坂井へ入った以上は瞠次第。もはや、俗世へ帰るも、神域に留まるも、女を騙るも、男として生きるも、すべて。
「それでは、その装い……瞠さまはやはり、外へ?」
 かいつまんでことを語ると、獣返りを騙ったという瞠の告白に七宮はさほど触れず、ただ瞠の今後の動向を気にして、寂しそうな顔をした。けれど、瞠はかるく首を振って否定する。
「いや。――もしも許してもらえるのなら、偽の獣返りであったとしても、境の坂井に留まれたらと。片隅でも、しばしでもいい、七宮どのに、そう願いに参ったのです」
 緊張しながらも、丁寧に言葉を繰る。正真の獣返りであり、聖なる古井戸に奉仕するひと。この神域において、許しを請うならば、そんな彼女に対してだと思った。瞠がこの神域に留まりたいとの情を持て余すのは、なにより七宮の所為なのだ。どうにでもなれと、しかしどうか拒む言葉がかえらないようにと、指先がふるえるほどにつよく、瞠は願った。
「どうしていまさらに、わたくしに?」
 果たしてかえりきた返答に、少年はぐっと呼気をつまらせる。
「瞠さまの坂井入りは、とうに認められておりますでしょう? ねえ、兄君さま、妹君さま」
 七宮は不思議そうに、三宮の古井戸のへりに止まる、二羽の烏に問いかけたのである。
 すると、烏のそれぞれの輪郭がぐにゃりと歪んだように見えた。錯覚かと焦り、反射的にまたたくと、侍従烏の兄君と妹君。見慣れた童子が、寄り添いあってそこにいた。
「申しておりませんでしたか?」
「察して、おりませんでしたか」
 絶句する瞠に、兄妹が交互に呟くかたわら、七宮は口を開く。
「聖の三宮、祝の三宮と言うではありませんか、瞠さま。祝の三宮は彩宮と呼ばれるように、侍従烏もまた、神使の異称と。……わたくしは、坂井入りに際してそう、お二人から聞いていたのですが」
 もしや二宮さまがた、瞠さまには伝えてはいらっしゃらなかったのですか?
 そう、困ったように兄妹烏へ尋ねる七宮へ、兄君は「異装でいらしたのには、驚きまして。人の世の事情は知りませぬが、我らとても、驚かせたくなりました」などと澄まして答える。
 つまりは、御山の神に次ぐ格であると平然と肯定されて。いまのいままでこの兄妹もまた獣返りだと信じていた瞠は「まさか」だなどと、言葉を取り落すしかできない。妹君は兄君の隣でにこやかに笑むばかりである。つきつけられた不可思議に惑う瞠を見つめながら、七宮はゆっくりと、事態を結ぶように言葉を操った。
「二宮さまがたが、瞠さまが東の対へ入ることをお認めになっているのなら。瞠さまにこの神域にいてはならぬなどと、言える者はおりません」
 そうして七宮は、そっと瞠を見上げてくる。どうするのかと、窺うように。瞠は瞠で、惑いをなんとかのみこんで、七宮の眸を、しっかりと見た。
「……私にはやはり、帰る場所はない。私は男だけれど、獣返りでもないけれど、それでもこの境の坂井の神域の水を守ることかなうなら――七宮どの」
 境の坂井に咲く、水守。その傍らにあれるなら。
「いまはそれこそが、さいわいに思うよ」
 言葉と言葉の間に一呼吸とともに、音にはあらわせぬ声を添えたけれど。むしろそのほうが、今は相応しいように思えた。
 なにせ、いとわしいほどに彼女へ向かい続ける情は、たやすく飼いならせぬ。今まで憶えたことが無かったからこそ、このまますべて手放して神域を去るなど。かないそうにはないのだ。
 稔りのいろを、頭上に宿すひとは。かくて、やさしく笑みをほころばせた。

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