境の坂井に咲く水守

ふたつ

 行列に付き従ってきた家臣や侍女たちは、到着とともにはやばやと返された。姫君の御付きとはいえ、資格なき以上は、側仕えと言えども神域入りは認められぬと言われて。
「それにしても、長い道中でしたでしょう。お疲れではないですか」
 行列の主である瞠を東の対へと通して後。随行者を言葉一つで返したのは、今かたわらでかるく笑まって控える、瞠よりもいくぶんか年下の少年だった。名を、侍従烏じじゅうがらす兄君えぎみ。そう名乗った彼は、屋敷門にて、一行を出迎えたふたりのうちのひとりである。
 侍従烏と呼ばれるならば、濡羽の髪の他はその特徴、目に見えずとも、おそらくはこの童たちは烏を先祖に持つ者で、そして獣返りであるのだろう。それに少年が兄と名乗るのならば、ふたりは同い年にしか見えぬことだし、揃い子の兄妹であるのか。獣返りで、そのうえ珍しい生まれの子であるなら、たしかに神域の侍従の地位はこの童たちに相応しかろうと瞠は思った。人の世に在っては、きっと己のように苦労を重ねるだろうと。
「それなりに。ですがやはり、東領は山ばかりですから。仕方ありますまい」
「そう無理をせずともよろしいですよ。西の御方おかたも、到着後しばらくは臥せっていらした」
 苦笑とともに声を繋げば、兄君は大人びてこちらへ気を配る。
 西の御方。西領より、瞠のほかにも水守を志し参った姫が、どうやら幾日か前より既に西の対に入っているらしいと知ったのは、行列の随行者たちが去ってさほどもたたぬうちだった。
 瞠の他に、境の坂井に姫が参じているなどと――完全に計算外である。
 西領の領主には、確かに姫が一人いると聞く。傍流の姫である可能性も捨てきれないのだから、西の御方とやらが領主の娘であるか否かはわからぬが、ともかく瞠が城を出てからこちら、西の姫の坂井入りなどという報せは、まったく掴めていなかった。
 ゆえに、せめて情報を得ねばと焦り、西の御方とやらに対面を申し出たのがつい先刻の話だ。
 意外にも、話はすんなりと通った。そちらも到着間もないだろうからとの西の姫の心遣いで、対面の場は東西の対の建物の間にある正殿とされ。そうして今は、待ちの状態である。
 この神域において、西の姫君の側仕えを引き受けているという、兄君と対の少女。先に妹君おとぎみと名乗った童を西の対に見送って、まだそう長い時間は立っていないが、瞠の心中は穏やかならずに波打っていた。
 しかし西領の領主だなどと、あまりに苦い思い出ばかりにゆきあたる。既に母を恋う年頃ではないにせよ、母が西領領主へ嫁した折、瞠が捨てられたのは事実である。優しい思い出だけでなく、『稔りが去っていったなら』などと、いつくしむような声で恐ろしい言葉を繰り返した母、由姫。彼女は嫁ぐに際し、御神に詣でると言ってこの境の坂井の屋敷にも訪ったと聞く。
 苦いものばかりが、胸中を満たしてわずらわしい。
「西の御方が、お目見えのようです」
 無意識に眉をひそめていると、兄君は不意に、瞠へ庭の方を示した。
 庭をはさんだ先、西の対より繋がっている渡殿わたどのを向けば、山吹色の袖が垣間見えた。
 しかしその人影はすぐに柱の向こうへ隠れ、今度は御簾越しにしか姿が見えぬ。西の姫が妹君に先導されてたどり着いたらしい。その折、わずかに目にした影に違和を憶えながら姿勢を正すと、兄君が瞠を通り越すように妹君に視線を向けて、優しく笑みかけた。
「早かったね、妹君」
「ふたりで急ぎましたもの、兄君。瞠さま、七宮ななみやさまをお連れしました」
 瞠が声のした方へ振り向くと、なるほど、そこには山吹の衣に身を包んだ姫君が、返りきた妹君とともに、緊張した面持ちで立っていた。――まこと、人ならぬ身を晒して。
「……つ、の?」
 おもわず声を漏らすほどに、衝撃は大きかった。
 瞳をおおきく見開いてみても、目に映るものは変わらない。面食らいながらも平静を取り戻そうとよくよく彼女をみつめれば、相手の姫は戸惑ったようにはにかんで、瞠の眼前に座した。さいわい、被いたままの幸菱の衣ゆえ、こちらの表情までは読み取られなかったらしい。
 背を覆い、低い位置でゆるくまとめられた黒髪に、揃いの色をした瞳。日に焼けず白い肌が、化粧をほどこしたやわらかい目元とともに印象深い。さきほど垣間見た山吹の袿からすこしだけ指先をのぞかせて、西の姫は。その頭に細い雄鹿の角を戴いた、瞠よりも頭一つ分ほど背の低い、数え十二、三ほどと見える少女は、はりつめた声で名を述べた。
「はじめまして。わたくしは七宮。ただ七宮との号を授けられ、名すらもなくして、この地に放逐されました、西領が主の娘にございます」
 懸命に言う少女の華奢な首筋が、支えるのは頭だけではない。その頭上には朽木めいた細い枝が、まるで雄鹿の角のように生え、葉のつかない枝分かれした木の肌からは、たださやかに透ける琥珀こはくのごとき黄金の花が、ちいさくいくつも芽吹いていた。
 髪の色が違う、顔立ちが違う。そのような程度の話ではなかった。
 七宮と、そう名乗った西の姫は、侍従烏達と同じく、ただしく獣返りなのであろう。しかし、その異形はあまりに顕著で、あざやかすぎる。
 初めて真向かう、常ならぬものへの情を、己よりもわずか幼くみえる娘に瞠は抱いた。それでも名乗られた以上はと、戸惑いながらも言葉を返す。
「私は……東領を統べる一族の嫡流。名を瞠。実家より出奔して参った身ゆえ、号は持たぬ」
「――それでは。もしや瞠さまは、六宮さまのお子でしょうか。もしそうならばわたくしとあなたさま、姻族とはいえ、いとこにあたりますのね。嬉しい。わたくし、年の近い近縁の方にお会いすること、はじめてなのです」
 すると、なにを思ったか、七宮は安堵したようにはにかんだ。
 しかしながら、見上げてくる視線にひとつ、おもいあたってしまったことがある。七宮のぎこちなくやわい仕草に、瞠は口元を引き結んだ。
 まこと、西領の主の娘というのならば――この娘、おそらく由姫が西領に嫁いで生した姫君、なのであろう。西領領主の子は、母が産んだ数え十二の姫君と、まだ生まれてそう何年もたっていない、幼い若君のふたりだと聞いている。
 もしそうなのであったとしたら、つまりこの七宮という異形の姫は、名も知らず、顔も知らず、存在を知りえるだけでしかなかった、瞠の異父の妹なのだ。
「わたくしたち、互いにかえりゆくあてもなく境に入ったということは、これから短くはない時を、あるいは生涯を、ここで生きるのでしょうね」
 七宮は、瞠が胸中に渦巻かせた醜さに気づくはずもなく、優しい言葉を紡ぎ続ける。
 自分を捨てた母のことは、憎くもないし嫌ってもいない。個人的な関心など、もはや捨てたも同じである。ただひとつ、せんなき恨み言を言いたいとすれば、なぜこのような異形の容姿で生んだのかと、それだけだ。
 しかし目の前の少女は、己以上に異質であった。頭上に戴くは、花こそ芽吹いているが、雄鹿の角めいてひろがる枝。だというのに彼女はこんなにも、いたわりめいた言葉ばかりを吐く。
「なら、たとえば姉妹のように親しくなれたら、瞠さま。わたくし、とてもうれしく思います」
 頬をわずか染めて、笑んで。そうして七宮が発する、言葉のひとつひとつが、苦い。
 限界だった。放逐されたということは、また生涯を坂井で生きるなどという言葉からするに、この娘も出奔してきた己と同じく、故郷に縁なき身ということだろう。
 ならばと、なかば投げやりになって瞠はおおきく嘆息した。神域に入った以上は、もはや隠す必要もない。むしろこの屋敷に瞠以外に住人がいるというのなら、一から十まで隠し通すなどという、危ない橋は渡りたくはない。
 侍従烏の童子たちがそれぞれに視線をよこし、七宮もおびえたようにわずか目元を歪めたが、気にせずに視線をあげ、声の調子を素に戻す。
「姉妹、姉妹ね。たしかに血縁だろうよ」
 これまでの姫君然とした声とは、あまりに違う。がらりと変貌した仕草は、乱雑にするどい。
「だがよろしいか、異形の姫。たしかに私はこのような装束だ。みせびらかすように嫁入りを謳う行列を出させ、しかしきちりと衣を被いた」
 伏し目がちにおとしていたおもてを上げ、あざけるように笑んで。そうして、被いていた幸菱の衣を乱暴に、頭から引き落とした。
「私は男だ。しかし、我が身は世に明かされてはならぬ。だから俗世より離れなければならなかったし、わざわざ女を装って、このようななりで神域へ参った。ゆえに、姫君。たとえ血が繋がっていようと、いまいと、姉妹のようにはふるまえぬよ」
 そう、心中の醜さを吐き捨てるようにして告げたひとの髪は、あかるい。この、海神わたつみの領地に土地の全てを囲まれた、小さな、しかしちはやぶる瑞穂の島においては、常人ただびとならざるほどに。
 顔立ちは冴えて穏やかならず、くっきりとした目元はすうととおって涼しい。瞳の色こそ宵夜の深い黒とはいえ、結われた髪は、さながらひかりを縒り流したがごとく、黄金。そのきらびやかなあやとするどい面差しは、東の領主一族の御祖なる霊狐に似て。
 ひかりというよりはむしろ、この地においては稔りの色であり、獣の色であった。
 まこと、異形の子――獣返りなる異質の身をかたるに、相応しき容姿である。それぞれの「姫君」の傍らに控えていた兄妹烏が、わずかに瞳をまたたいた。
 はん、と、誰をあざけるようにか口元を歪めれば、少女はとっくりと目を丸くする。
 瞠はすっと立ち上がり、乱暴に裾を割って踵を返すと、七宮などその場に捨て去るようにして、東の対へと早々に身を入らせるために正殿を後にした。あまりに突然の突飛な行動ではあったが、兄君がわずか遅れて、姫君の態を捨て去った彼の後を追ってくる。
 なんなのだ、あの女は。異形のくせに。私よりも異形のくせに、どうして私と、馴れ合おうなどと。まるで……人の子の、ように。
 気付けば夕暮れも近く、その日、瞠は供せられた夕餉も断って、ただ重苦しい花嫁の装いをほどいただけで、早々に床についた。緊張の糸が切れたのかもしれない。
 とにかく、なにもかもがいとわしく感じられた。
 煩雑にうずまく心中のもやを払えぬままに――背負う出自と来歴ゆえ、この容易に立ち去りはできぬ境の坂井の神域の屋敷で。かくて瞠と、七宮と、そして兄妹の侍従烏。西と東の対に別れ入る子供たちは、それぞれに日々を過ごすこととなった。


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