参る、参る、御前が参る。幸菱映え、帯白く。花の顔、喉白く。花嫁御寮が坂井へ参る。
囃子歌を耳にするたび、思いだすのは母の嫁入りだ。異形の瞠を産み生し、子が乳を離れてしばらくのうちに、弟当主の命で西領の領主へと嫁していった姫君。身内であるからこそ知りえる彼女の名を、
瞠の頭をなでた手はやさしく、抱きしめる
いざや姫君、通りゃんせ。
子供たちのあげる、囃子の声はとぎれない。それどころか、次第に畑仕事の合間に見物にきたらしい、大人たちの声も混ざってきた。
仕方がない。そもそも、土地が悪いのだ。
東領の大半は水田を作るにはいささか相性が悪い土壌であるため、民は毎年、領主の指揮でもって定められた一部の森ごと土を焼き、作物を育て、数年耕した後は休閑し土地を休ませる。つまりは焼畑の技法をもってして、この東領の民の多くは収穫を得ているのである。
話に聞く、
いくら伝来の技術の数々をもってして銭を稼ぎ、足りない穀物を
なればこそ、瞠が
次第に囃子の声は遠ざかる。山深き道へと入ったのだろう、駕籠の乗り心地も悪くなった。
「姫君様、お加減が?」
「ああ……いや、少々疲れただけ。大丈夫です」
人の気配が少なくなったこともあり、瞠は駕籠の内で詰めていた息を、かるく緩めると、途端、駕籠の外を徒歩で随行する侍女から声がかかった。こころもち声を高くして返せば、安堵したように、然様ですかと声がかえり、そして再び足音と衣擦れだけの存在に戻る。
普段は瞠の従姉であり、東領領主のひとり娘である姫君に仕える彼女も、神域へ参る瞠へ期待する心、そして同時に瞠へのおそれは大きいのかもしれない。
この地において、時に領主よりも尊ばれ、宮との号を戴く賢しき女人。その末席である、六宮の号を冠す領主の正室が、長年養い育てた、領主一族嫡流とされる獣返りの姫。それだけが瞠の来歴である。憶測の域を出ない数々の噂はつきまとえど、たとえば嫡流という以外の正確な出自であるとか、他にあかされていることはない。
従者も人の子だ。必要以上の興味をおぼえるのも、無理のないこと。
それにしても、居心地の悪いやりとりである。
誰からも見られぬことに甘え、瞠は盛大に表情をしかめた。
しかし、決意は固いのかと幾度も問うた養母の声も。成人もしていない身のあなたがゆくこともないと、気遣ってくる従姉の心配りも。東領領主の示す、あからさまな難色も振り払って。領を統べるといえども存分に豊かとは言い切れぬ
幸菱紋の着物に身を包み、頭には真白い
ならば瞠はなんとしても、領主嫡流の姫君として、領に豊穣をもたらす
「姫君様、ご到着」
まだかまだかと待ちわびた声が響いたのは、それから半刻ほど時を経た頃だった。
行列の歩みが止まるとともに、瞠は侍女のひとりの手を借りて、駕籠の内より出でる。端々まで丁寧に装いた、嫁ぎゆく姫君として、瞠はその場に身を現した。
衣を被いているとはいえ、獣返りの瞠の見目は、やはり人々の目に異質に映るのだろう。今は頭を下げて控える、行列に付き従ってきた従者や侍女たちの注意が、全身に払われているのを感じる。侍女の手に重ねられた、己の指先だけ盗み見ても
門前までゆっくりと歩を進めてその場に立ち止まると、付き従った家臣の筆頭である老爺が、神域の門前で声を張り上げた。
「
慣例のとおりに、伝承のとおりに。古い礼とてつくさねばならぬ。
東西からのびる坂の途切れ目たる境界線上に
なにせ、御神の神体である御山一宮、神使である御使い二宮、神域の
それゆえ、参ることを許される者も限られる。
神域に参ずることを許されるのは、獣返りなる異形と、東西の領主の血筋の者。その他は都におわすという
瞠は神域に参る資格を、いうなれば人よりも多く持つ身であるからとして、此度の坂井入りを渋る領主に認めさせた。認められた婚姻を経ぬ不義の子とはいえ、東領嫡出の由姫の子。そして獣返りの異形であるからと。
「境の坂井へ仕え奉らんと、俗世を逃れ参り来た。どうぞ、お認めいただけますよう」
瞠はことさらに堂々と、声高く、屋敷門の向こうへ
息を詰めて
門の向こうで立ち並ぶは、ふたりの童。彼らは瞠よりも幾分か幼く、男女の違いもあるものの、その見目まこと似かよっていた。兄と妹、あるいは姉と弟であろうか。きりりと涼しげな顔立ちの少年と、やわい眼差しが優しげな少女が、古風な装いに艶のある黒髪を結って、開かれた屋敷門の内側よりこちらを見ていた。
値踏みされているように感じて唇を引き結ぶと、少年の方がかるく、笑まった気が、した。
「ならば、お迎えいたしましょう」
その一瞬の表情にそぐった声音で、短い言葉をはずませるとともに、そして彼は瞠をいざなうかのようにして、かるく門の奥を示す。
「姫君。境の坂井に在る御覚悟、まこと整いましたなら、どうぞこちらへいらせられませ」
かたわらでは少女の方が、やわらかな声で静かに告げる。
わずか安堵して吐息をつくと、それを見た家臣の老爺が「姫君様」と瞠を呼んだ。
「無事、境の坂井へ参じられること、お祝い申し上げます。井戸の聖き水、後々までも滾々と、絶えることのないよう、お祈りいたしまする」
「ええ。ありがとう――城下よりの随行、ご苦労でした」
最後に姫君然として声をかけると、瞠は今度こそ、侍女の手から身を離して屋敷門をくぐる。
どんなにうまくことが運んだとしても、こうして参じた以上はきっと、同じ姿では二度と出てくることは叶わぬ。それでもこの神域に入ることこそは、瞠にとっての自由への一歩だった。
なにせ。今までのようにただ養母に守られて、成人として身を改めることすらままならず、ただ城の奥で生き繋ぐだけでは、屍でいることと同じだった。
しかして、このような異形の身である。庇護者の手を振り払い、こどもの身分と装いを捨てて、城の表へと正真の姿のまま安易に身をあらわすなど。そんな行いを成せばただ、自ら骸に成るだけだ。そのようなこと、もはや瞠にとって、認められるものではないのである。