03/名前をたくす





 

 リセトの村から響くにぎやかなざわめきを、館に留まっているアリーセは、二階のベランダで聞いていた。
 夏の盛りの宵だ。長い間外の空気にあたっていても寒いということはなかったし、ぼんやりと夜空をながめるのも、まばゆい星々のきらめくゆえか、飽きはしない。
 今宵は、村をあげた宴の夜だった。針仕事がたくみと評判の娘と、先年に独立した青年。先祖代々を村に住まう古い家の若いふたりの婚礼を祝して、人々は酒に、あるいは歌に、踊りに興じている。
 リセトを加護する祭司として招かれたフローリアンも、おそらくはあのざわめきの中にいるのだろう。アリーセはリセトを離れて四年もたつし、なにより住み込みの使用人の多くも宴に赴くならばと進んで留守役を買ってでたため、祝宴もこの館から遠くに眺めるだけだ。興味が無かったと言えば嘘になるが、花嫁の親類である家女中や、あるいは花婿の友人である厩番をこの館にとどめおいてまでして、宴に加わることもない。
 どれほどか、アリーセはそうして夜をながめていた。けれど星を見つめながらも考えているのは、今日手伝った婚礼の儀式のことではなく、先日に届いた、伯父からの手紙についてだった。
 四年前、アリーセに寄宿学校に入学するよう強く勧めた亡き父の異父兄は、今は王都のほど近くに領地を構える、クロイツェル司教領に暮らしている。――彼の人は、司教領を治めているのだ。聖堂の神を崇める、国教の使徒、シュトルツ司教として。
 祖母殿が亡くなったとは聞いた。だがなぜ、寄宿学校から遠のき、今もまだ旧女王領などに居るのか。姪御殿、あなたももう十七なのだ。婚礼も考えるべき歳であるというのに、そのようなことは慎むべきではないか。
 要は、そういうことだった。
 相変わらず、姪を半ば無理矢理に女子修道院付属の寄宿学校に招いた時と同じように。聖職者であるも領主でもある伯父は、現在も政略に執心のようだった。彼からすれば異教の祭司の孫娘であるといえど、アリーセは幾人もの高位聖職者を一族に持つ、シュトルツ伯家の係累とみなされるらしい。伯家傍系であった彼女の父は、花祝ぎの子である女との婚姻に際して家名を捨てたというのに。司教は今もなおそうとは見ない。
 確かに、アリーセ自身、心の片隅に疑問は持っていた。
 自分はほんとうに、旧女王領に居るべきなのか。あの時、フローリアンを謗った自分は、ほんとうに古い祭司の力となれているのか。当代の花祝ぎである彼へ、花祝ぎにはけっしてなりえない自分はただしく、託すべきことを託せているのか、と。
 それだけではない。強い嫉妬を憎いとあらわしただけでなく、自分はいつか、彼を疎んじてしまわないかとすらもおもう。嫉妬のあまり疎み、そして花祝ぎの後継へと、いつか傷つけるための刃を向けはしないだろうかと。
 おそれが、負い目が、伯父からの手紙でさらけだされたのかもしれない。抱え込んだ不安はあまりに彼女を心細くよわらせた。アリーセがリセトの村のあかるさから、いつまでも離れられずにいたのは、形のないそれをおそれたから。
 きい、と隣のベランダの扉が、不意に室内から開け放たれる。いつの間に館へ帰ってきていたのだろう。アリーセがその訪れに気づいて視線を移せば、フローリアンがぼんやりと立っていた。
「あれ、こんばんは」
「……こんばんは。祝宴、抜け出してきたのですか」
「うん。この前の婚礼の時みたいに、夜通しの宴になりそうだったし。それはさすがに、明日がきついから」
 困ったように言うフローリアンに気づかれないよう、アリーセは口元を引き結ぶ。彼が立つベランダは、館の主である花祝ぎの書斎から続くものなのだから、そこにフローリアンがいるのは不自然な事ではない。けれどいま、彼女は彼の姿に、わずかといえど動揺した。そのことが、気まずいと思う。
 咄嗟に言葉を見つけられないアリーセへ、フローリアンはゆっくりと言葉を繋げた。
「この前の祝宴もそうだったけれど、今日の宴も賑やかだったよ。古い歌語りやまつり歌も多く聞いた。俺の知らなかったものも、いくつかあった」
 それは、すこしばかりかなしげに。
 わずかに嘆息したフローリアンに、アリーセは今度こそ、「それは、花祝ぎの領分のものではないからかもしれませんね」と慎重に声をかける。
「王統の祭司だからこそ、花祝ぎには継がれない言葉もあるのでは」
「でも、王と呼ばれていたのは、最初の女王の王殺しよりも、峰神を籠め鎮めた時代よりも以前のことだろ? それを、いまもまだ?」
「そうです。いくら女王家へ冠を託して久しいとしても、いくらその血が薄くとも、一度玉座を担った以上、いまも花祝ぎとその血筋が王統であることにかわりはない。統治者には伝わらず、民衆の間にだけ伝わるものもあると、おばあさまも言っていたもの。親から子へ継がれるものを、安易に祀り手が語っては、その形はのぞまなくても変わってしまうと」
 必要以上に多くの言葉を連ねたのは、きっと動揺を隠すため。構えるほど慎重になるのは、伯父からの手紙を読んで以来、必要以上の接触を疎んで、フローリアンを避けてしまっていたからか。
「花祝ぎの、血統」
 けれど常らしくあろうとして淡々と続けたアリーセに、彼はますますの不安をおぼえたようだった。彼女の言葉が途切れるのを待ってつぶやかれた言葉と、続く「そう、だよね」という声は、わずかにかすれていた。
 それにアリーセが気付くよりまえに、会話のあいだ少女に向いていた視線は、ためらいがちに伏せられる。
「あのさ」
 そして数拍の後に、彼はなかば吐きだすように言った。
「敬語とか、いろいろ、やめれば?」
 なにをおもって、そう言ったのだろう。
 アリーセはゆっくりとまたたいて、もう一度、フローリアンへあらためて顔を向けた。
「あんたも花祝ぎの血統なんだから、たとえ俺を呼び捨てにしたとしても、人に奇異には思われないよ。いまさらとりつくろわなくても、いいだろ」
 どうして、いまそんなことを。
 最初こそ疑問に思ったが、言葉が続けられるにつれ、こたえにはすぐにゆきついた。
「近しいと思われたくないなら、別にいいけれど。でも、俺が尊敬されているわけでもないのに」
 花祝ぎの血統、王統の花祝ぎ。アリーセの語ったなかに含まれていた単語、避けているだろうと、認めていないならばと、吐きだされた声のもろさ。血は濃く継いでいるも異能は継いでいないアリーセが、異能を継いだ自分を、いまもひたすらに疎んじていると。フローリアンがそうおもったのだろうことを、アリーセは薄々と察した。おそらくは、はじめてあった日に、謗ったからこその直感がそうさせた。
 かるく、体ごと彼の方へ向き直ると、フローリアンは伏せていたまぶたを持ち上げて「疎まれているのも、知ってるから」と、アリーセをまっすぐに見て続ける。
「ちがう」
 するどい視線に、アリーセには彼が苛立っているのかと最初はおもった。しかし傷をこらえてでもいるようだと不意に気づいてしまえば、咄嗟に口から音はこぼれおちる。
「私が疎むのはあなたじゃない。それに憎くても、疎めない。そんなことできない」
 だってあなたは、おばあさまの遺した後継。
 さいごの一言だけは心中で続けると、一拍だけ呼吸をおく。 いくらアリーセが認めることをためらおうとも、彼が祖母ののぞんだ後継であることだけは事実だった。
 そこで、ようやくアリーセは、自分の言葉に気付いた。
 ――彼を疎むことなんて、できるわけがないのだ。
 自分は花祝ぎではなくても、フローリアンは花祝ぎであっても、それでも彼とアリーセはおなじように、グレーティアにまもられた。
 アリーセがフローリアンを厭うことを、祖母はのぞまないと確信できる。グレーティアが悲しむことをすすんでおこなえるほど、彼女を亡くした悲しみや、大切な家族への愛しさは薄れていない。
「そ、か」
 アリーセから肯定の、あるいは厭いの言葉がかえるとおもっていたのだろうか。おどろいたように、フローリアンは言った。
 その表情におもわず、アリーセも肩の力が抜ける。ためいきまじりにうすい笑みすらこぼれた。
 向かい合って話したことだって、そうあることでもなかったではないか。知ろうともせずに、なにをおそれていたというのか。
「疎んでは、いないよ。ただ、羨ましかった。羨ましすぎたの。あなたが悪いわけではないから」
 伯父への返信はあたりさわりのない内容を連ねればいい。
 託されたものを託すまでは、すくなくとも、頼まれたことを終えるまでは、この地に残ると返事を出そう。機嫌を損ねたとしてもいい。次に怒りの手紙が来たとしても、今度は揺らがない。聖堂の領分へは、帰らない。
 そう決めてみれば、嘘のように心のよどみは晴れた。
「誤解させた。ごめんなさい」
 するりと発せられた声のあとに、ぎこちなく「フローリアン」とアリーセが呼ぶと、彼はどこか懐かしそうに、泣きそうに、「声の調子、おなじだ」とぽつりと言った。
「呼び方が、おなじ」
 泣いているわけではないのに、どこか泣き笑うかのような表情だった。
「フロウでいいよ。グレーティアさまもそう呼んでいた」
 アリーセもそれにつられるように、すこしだけ笑まう。
「なら、フロウ。私のこともアリーセと」
 さいわいを願う宴の声は夜の深まるにつれ、いっそう高らかに響く。風にのって、互いに名を交わす儀式を終えたふたりを祝す歌声がながれてくるのに紛れて、アリーセは静かに告げた。村で笑っているだろう婚礼の主役たちとは異なるだろうけれど、この名を託すという行為が、託されたものを託しきる、決意の証となるようにと。