02/つづれる言葉





 

 花祝ぎその人の住まう館は、祭司の村リセトから少しはずれた丘の上にある。
 村のはずれから続く木立を抜けて、季節ごとに野の花の咲く小高い丘をのぼった先に構えられた、小さな館。くすんだ茶色の煉瓦の壁に、淡い青の飾り窓が映えるそこが、今はもう眠れる亡神の祭司が、古くから暮らす場所だった。
 先の春に四年ぶりに故郷の土を踏んだアリーセは、在籍する女学校へ休学の手紙を出しまでして、二月がたった今でも、相変わらずリセトの村に留まっていた。彼女の宿は祖母と共に幼い頃から暮らした家で、つまり今では当代花祝ぎフローリアンの所有物となっている、代々の花祝ぎの住まいのうちの一部屋だった。
 「大嫌い」と、あるいは「憎い」と、きっぱりと言い切った間柄の彼らが同じ館で生活しているのには、もちろん理由がある。不本意ながらも、フローリアンがアリーセに助力を願い出たのだ。そして、アリーセもまたそれを承諾した。
 彼が彼女に頼んできたのは、グレーティアの晩年に発見された古い手記の読解と、現代語での再度の編纂に関しての指導だった。手記は三代前の花祝ぎの遺したものなのだが、古い文章技法で綴られているため、フローリアン一人では曖昧にしか読み解けない部分が多かったのだ。
 それは、女性を菩提樹と称し、船を波の馬と言い換えるような古い文章技法で、この代称法を知る者でないと、手記の原文を読み解くのは少しばかり困難だった。
 十二までを旧女王領の外で生きてきた彼は、たった四年しかグレーティアに師事することができなかった。そのため少しばかり、花祝ぎとして継承するべき知識に不十分な部分がある。
 対してアリーセは、母を亡くした五歳の時からグレーティアに育てられている。なかなかにリセトに現れる事のなかった次代への継承に不安感を持っていたグレーティアから、彼女はフローリアンの代わりにと、さまざまな知識を託されていたのだ。万が一、グレーティアが次代の花祝ぎへと継承を行えなかったとしても、その祭儀と伝統が途切れることが無いように、と。
 当代の花祝ぎとなったフローリアンに対し、いくら内心で毒を抱いていようと、祖母の守ってきたものを散逸させることは、アリーセにとってもけして望ましくはない。それもあって彼女はこの役割を引き受け、こうしていまだリセトの地で暮らしていた。
 花祝ぎの館にしつらえられた書庫には、この地がまだ正しく女王によって治められていた頃からの、膨大な数の書物が眠っている。館の東側一帯が、以前より書庫として割り当てられていたが、それでも収まりきらないため、ここ百年ほどは物置として使われていた地下にまで、本は溢れかえっていた。
 くだんの手記もその地下に積まれた本の山から発見されたものだそうで、古びた表紙と傷んだ紙は、読み手に書の背負う歳月を感じさせる。
 アリーセは古い手記から新たに用意された紙へ最後の一文字を写し終えると、まだ乾かないインクに触れてしまわないよう慎重に、円卓の脇に移動させた。
 彼女は今日も朝から、古い言葉でつづられた手記を現代の文法で書き写す作業をしている。
 この二カ月、手記を読み解くとともに花祝ぎであるも欠けている古い文章技法の知識を補うべく、日ごとに時間を決め、フローリアンと共にこの手記に触れていたのだ。けれど彼は昨日まで、このリセトの現在の領主ともいうべきアーベライン伯爵家へと花祝ぎの代替わりにともなういくつかの協議の為に赴いており、数日のあいだ村を留守にしていた。
 そのため、彼もすでに帰ってきているはずの今日は、久々にフローリアンが手記に触れる日であったのだが、そこにはまだ彼の姿はない。先ほど住み込みの家女中の一人に聞いたところによると、確かに彼は既に帰館しているらしかったが。
「まったく……」
 物憂げに溜息をつくと、アリーセはもう一枚用意された別の紙に、先ほど現代語に直して書き写した文章についての注釈を記しはじめた。いくらフローリアンが書庫に姿を見せないとはいえ、時間の通りにやるべきことは済ませるべきだと考えたから。けれど文字が紙の半ばまで連ねられてもまだ少年は姿を見せず、ようやく書庫の扉が開かれたのは、時計の針が十一時を告げ知らせた頃だった。
「……ごめん、起きそびれた」
 そう、ぐったりとして部屋に入ってきたのはやはりフローリアンで、アリーセは顔を上げると「ずいぶん遅いお出ましですね」と彼に言った。
「遅れたのは謝る。でも、仕方ないだろ? 帰ってきたの、明け方の四時だし」
 これでも、起きてからは急いだんだけど。
 そう付け加えながら、彼はさっさとアリーセの隣の椅子に腰を下ろす。その様子に少女は少しばかり驚いて、フローリアンに問いかけた。
「明け方って……協議は昼には終わるって、出立前に聞いていたけれど」
「終わったよ。終わったけどね。でも向こうを出られたの、夜半過ぎだった。あの伯爵が真夜中まで舞踏会なんて開いていたせいだよ」
 苦々しげに言い切る。
 確かに今期、旧女王領を支配下におく銀杖王の命で代行統治しているアーベライン伯は社交好きだと、アリーセも聞いてはいた。だが、仮にも祭司を舞踏会などにひっぱりだすとは。
「見世物にでもされたでしょう?」
「半分ね。あとは物珍しさでご令嬢たちの踊りのお相手。俺に踊れと? 祭司の礼装で?」
 花祝ぎは女王統治時代以来、領主としての役割の一部も担っている。領外から来た伯からすれば花祝ぎは祭司としての面もある、旧女王領の系譜の貴族、とでもいうような認識だったのだろう。だが実際には花祝ぎの本質は、今とて眠れる亡神の従者であり、領主としての役割は本来の物ではない。フローリアンは大きく息をつき、力なく机にひじをついて体を傾けた。
「断らなかったの?」
 アリーセが少しばかり咎めるように尋ねると、彼は「なんか、騙された」と苦々しげに言う。
「最初、ささやかな晩餐だって言われたんだよ。移動しているうちに夕になりそうだったし、さっさと帰るつもりだったんだけど、あんまりにもしつこかったから、少しだけって断りいれて参加したらこのざま」
「ご愁傷様。今度はきちんと見抜いて帰ってこられるといいですね」
 あっさりと返すと、アリーセはフローリアンに、円卓の端に置かれた数枚の紙を指し示す。彼はそれをうけてのろのろと腕を伸ばし、引き寄せた紙へと視線を走らせた。
 ……それにしても、やはりアリーセから見て、フローリアンは未熟だった。長年グレーティアのそばに居た分、それにまだまだ遠く及ばないフローリアンは、アリーセからすればやはり花祝ぎとして至らない部分も多くあるように見えてしまう。まだ年若いのだから、などという擁護が脳裏をよぎることもあったが、けれど彼は花祝ぎなのだ。
 祭司の座を継承すれど、彼の年齢はいまだ十六。アリーセよりも、一歳だけ年下。
 同じ年齢の少年たちと比較すれば、祭司として立ち、政治にも少なからず携わり、そして今までに大きな失態もないフローリアンは抜きんでている部類に入るだろう。
 けれど、それでもアリーセは、花祝ぎである彼の未熟さが目に付くのが耐えられなかった。
 本来、花祝ぎの資格はひとつだけである。その身に花を介する異能を宿すこと。
 先代グレーティアは雨に触れるごとにしずくを花にしたし、先々代は記した文字が花になった。古くには、風を縒って花を紡いだ祭司も存在したという。
 ひるがえって言えば、その異能無くしては、何人たりとも花祝ぎとなることは許されないのだ。
 アリーセは己とて、祭儀についての知識も、祭司としての役目をこなせる力も持つと自負していた。けれど生まれながらに持つその異能を、彼女は持っていなかった。だからアリーセには、花祝ぎとしての祭祀を行えない。
 フローリアン。アリーセがどんなに望んだとしても、決して継げない祖母の後を継いだ人間。
 だからこそ、きっと彼に完璧を求めるのだという事も、彼女はきちんとわかっていた。わかっていたからこそ、きっと現状が許せなかった。
「ねえ、『鉄の嵐』は戦の意だと前に言っていたよね?」
 先ほどアリーセがまとめた手記の現代語訳と、その注釈を交互に読み比べていたフローリアンが、隣から声をかけてくる。
「だとすると『己が権にて此度の鉄の嵐を認め』の一文、おかしくない? 仮にも祭司が戦に認可を出すわけ?」
 疑問を呈する少年の示した箇所に目を通すと、アリーセは丁寧に文章を解説した。
 二月も同じ場所で暮らしていれば、いくら出会い頭に互いが互いへ負の感情をあらわにしていようと、多少は親しみも出てくる。そもそも、彼らは互いを嫌い憎んではいるが、それを理由に諍う気は特になかった。
 ――それに、アリーセとて許せない現状を、いつまでもそのままにしておきたくはない。
「そこの『認める』は、たぶん文字通りの意味ではなかったと。認可ではなくて、『認める』が『名づける』の代称になっていたはず」
「じゃあ、これって戦に名前を付けたってこと?」
「そう。前後の文脈からすると、花祝ぎの権を以って名前を付けて、戦の終わりを民衆に知らしめた」
「ああ、そういう……そういえば、他の史書にも該当する記述があった気がする」
 アリーセが教えれば教えるだけ、フローリアンは花祝ぎとしての知識を身に着けていく。知ってはいるのだ。彼は努力を惜しまずに、花祝ぎであろうとしている。この二月で、嫌というほどそれを見てきた。
 彼が成長するということは、彼女にとって、自分ではない花祝ぎが、その座をますます確立するということだ。歯がゆいことだが、同時に不思議なほどに安堵もする。
 アリーセは、幼い頃から祖母のようになりたかった。
 祖母の後継でありたかった。
 でも、グレーティアが背負っていたのは、花祝ぎと言う祭司の役目だけではない。役目以上に代々の彼らが重んじてきたのは、脈々と受け継がれる祭祀と、今は眠れる亡神への忠誠の系譜だ。
 いくら憧れたからといって、資格を持たぬというのにその座をまことに望むということは、グレーティアへの裏切りに他ならない。
 アリーセは軽くうつむき、文字を書き進めるふりをして、手記の文章技法を学ぼうと、ふたたび資料へ視線を落としたフローリアンを盗み見る。
 少女の憧れを奪っていった少年は、正直今でも憎い。正確にはそれは嫉妬であるとは思うけれど、感情の強さからして、憎いと言い現した方が的確な気がした。
 それでも。認めたくはなくたって、今彼女にできることはっと、彼に託すこと、それだけだった。