椿

試し読み

二 過日の子供

 あかいまり(、、)が、転がり跳ねる。
 着物のたもとからまたたくまに遠ざかるたからものを追って、わたしはあわてて、夏の日差しが差し込む廊下をかけた。やわらかな薄紅に染めぬかれた裾がひるがえる。
 あまり頻繁には訪れない、母の実家である屋敷。その廊下の奥へと逃げ出すまりは、先の七歳の祝いの折、おばあさまから贈られた大切なものだった。ながい、濃いつやで覆われた廊下を小走りに、わたしはどこまでも朱を追った。
 そうやって、かけて、かけて。
 気づけばわたしは、近づくことを繰り返し禁じられている、奥の座敷にまでゆきついていた。
「あの座敷は、侵してはならない。願わくば、静かなまま。もう、暴きたくはないのですよ」
 そんな母方の祖母の言葉によって、閉ざされきったふるい襖。そのきわへ、たん、と転がりついて、まりはようやく動きをとめる。
 ほっとしながらも、わたしの胸中ではすこしだけおそれがわきあがった。
 感覚が妙にひりひりと鋭くなり、夏のひかりが結わえた影が、視界のはしでちらつくのがいやに不愉快だった。締められた帯が触れる腰に、じわりと熱が淀んでいることすら、もどかしい。居心地がわるい。
 触れてはいけない場所、近づいてはならない座敷。そこのきわにたどり着いたたからものを、わたしは取り戻したかったけれど……どうしても、祖母の言葉が、ならぬというように袖を引いた。
 それでも、すこしの迷いののちに、わたしはためらいを抑えて歩を踏み出し、まりへ手を伸ばす。手に馴染む糸のあつみに、詰めていた息をすこしだけゆるめた。
 と同時に――わたしは、その場にどこからかにじみわく、冷えた風を感じとった。
 そっと襖に手をふれてみると、どうしてか、この夏の気候には似合わず、ひやりと冴えて心地よさすら感じた。
 こんな、熱のこもった真夏でありながら、ここはどうしてこうも涼しいのだろう。この襖の向こうには、氷でも籠めてあるのだろうか。だから、おばあさまはここには近づいてはならないと、諭したのか。それにしては、言葉はずいぶんとあいまいなものだったと思い出すけれども。
 そう思いをめぐらせていると、座敷をすこしでものぞいてみたいという思いが、どうしてか、とたんわたしの中でつよくなった。
 開ければ禁を破ることになる。けれどこの時そのようなことを、わたしは大切だと感じはしなかった。
 結局わたしは、好奇心に負けた。
 すこしだけ。そう自分に言いおいて、まりを左腕で抱えながらも、そっと襖に手をかける。横へずらす。わずかだけ開けて、のぞき見るつもりだった。
 しかし暗がりに閉されていた座敷へと、ひかりの一条が差し込んだその瞬間。
 どっと、わずかな隙間を風が吹き抜け、襖をおおきく開けはなった。
 とたん、あおられた風はざん、と身をなで、衣をはためかせて宙をかけぬけ、座敷の奥まで渡り満つ。黒髪をうきあがらせた空気のゆらぎに驚く暇もなく、わたしはゆっくりと目をみはった。
 夏の熱と、冬の凍えの交わるところ。
 たしかに境であったそこを挟んで、わたしはひとりの少年をみいだしたのだった。
 ふるびた一枚の書を手に、襖の向こう側にて姿勢よく座る、わたしと同じほどの齢のこども。萌葱の紬をまとった彼は、驚いてこちらへふりむく。そのみじかい黒髪もまたわずか風をはらんで浮いたために、わたしははっきりと、彼の姿をみつめることとなった。
 あかい、気に入りのまりよりもなお深い、見知らぬ少年の異人めいた紅の眸が、ゆるやかにわたしへとまたたく。心の臓はうるさいほどに、ほそく、つよく、叫びをあげた。

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