それはひとしずくの毒、


  あるいは花橘の手折り








 その花を、いつかでもいい。手折りたかった。





 まだ幼い童であったころ、わたしは母方の祖母から庭の樹を一本譲り受けた。平安の都に構えられた祖父母の屋敷で育ったわたしは、帝の覚えもめでたい参議の長女である。当時気に入りの遊び相手もいなかったわたしは、その樹にたいそう心奪われた。ゆえにわたしは幼い日々を、朝に夕に、時には一日の時間すべてを、わたしの、わたしだけのものとなった橘の木の下ですごした。


 梅雨の間は地面には雨が降り注いでいたためそれも叶わなかったけれど、梅雨が明けて後、夏になるまでの短い季節は橘に花が咲き誇る季節であったので、それをたいして厭いはせず。雨にぬれる橘を屋敷の屋根の下から眺めるのも、そして季節の移り変わりとともにわたしの樹がかぐわしい花橘と、人に呼ばれ噂されるのを聞くのも、それはそれで好ましかった。

 さて、わたしが橘の主となるよりも、少しばかり以前のこと。家中には、同い年の童が引き取られてきていた。彼は父の、若く新しい妻の弟。わたしの母はわたしを産んだ時に死んでいたし、わたしの父はまだ若いというのに、帝への目通りをゆるされた身分だ。娘を父の新たな妻にと望む貴族は多かったから、わたしは父が再度 三日夜(みかよ) (もちい) の儀を行ったと聞いた時も、新しい弟妹はいつできるのだろうかとぼんやりと考えただけだった。けれどもどうやら父がそんなあまたの引く手には目もくれず、落ちぶれた宮家の姫を妻にしたと聞いたのは、わたしの大切な橘に、はじめて花が咲いた頃のこと。

 橘の下へ通い、橘のそばで、わたしは日々を過ごしていた。そんなわたしがはじめて同い年の、姻戚の、義理の叔父である彼と出会ったのは、わたしの橘の花が落ちてしばらくの頃。秋の初めに、父は新しく三条の一画に屋敷を構えた。そして新しい妻とその弟である 葉澄(はず) (ぎみ) を、そしてわたしを引き取った。もちろんこの時、わたしの橘もともに引き取られ、わたしのあたらしい住まいである、新邸の西対の屋の庭に植えられた。

 わたしは父のもとでも相変らず、橘と共に日々を過ごした。けれどある日、東対の屋の庭にひょこりと顔を出した葉澄と出会ってから、わたしが橘の下で過ごす時間には変化が見られた。北対の屋に居る姉を訪った折、庭伝いに帰ろうとして、いつの間にか東対の屋のわたしの庭へ迷いこんだ 葉澄(はずみ) 。彼は姫君らしからず橘に寄り添っていたわたしを見て、最初は文使いの童かとおもったらしかった。はにかんで「すまない、迷ってしまったのだが」と、わたしの瞳をまっすぐと見て話しかけてきた。わたしには、それが新鮮だった。ここは東対の屋だと、これはわたしの橘で、わたしは 初穂(はつほ) の君と呼ばれていると、緊張に細くなった声でかえすと、彼は「では、あなたが義兄上様の御子でいらっしゃるか」と、たいそう驚いて目を丸くした。その日、わたしは好奇心から、彼をわたしの橘の下に招き、いくつも言葉を投げかけた。そして日が暮れる頃、彼は父の厚意と、父の溺愛する新妻の願いで西対の屋に与えられていた、自分の住まいへ帰って行った。

 それ以来、わたしと彼はたびたび、橘の下で時間を過ごした。

 いつしかわたしも彼も、互いを気に入って「ああ、この者は自分たちがいつしか父のように――あるいは義兄のように――他の貴族の若君たちのように、帝の御為、宮中に参じた時には、互いに背中を守る相手となるのだろう」と、かたく信じるようになっていた。共に過ごした時間は長く、絆はきっと|磐(いわお)よりも強かった。

 ……けれど、手をとりあって言葉を交わし、手を繋いでは心を通わせた、大切に約束を織り込んだ、その絆は強すぎたのだろうか。
 わたしと葉澄が出会ってから、幾年目かの六月。家人の多くが仕事に走り、父も義母も客をもてなした、宴の開かれたその夜のこと。雨は花橘にしたたりおち、御簾の内では葉澄の涙もまた、わたしの頬の上についと伝った。

 葉澄の押し殺した声が、「初穂」とわたしの名を呼ばわる。熱をもったわたしの頬に触れる彼の手はひやりとつめたく、それがどこか心地よかった。けれどわたしが葉澄の黒い瞳を涙にぬれた視線で覗き込むと、彼は「ごめんなさい」と音の粒を紡ぎ落とす。

「でも、愛しいよ」

 本能の言葉が口ずさまれるとともに、またひとしずく、わたしの頬へと彼の涙は伝い落ちた。

「僕は君が愛おしい。初穂がほしい」

 彼の涙と、最初の言葉とは裏腹なその焦がれる声は、わたしにとっての毒だった。ふたり過ごした日々の中で、いつしか芽生えていた感情を、気付かずに殺していた愛情を、彼の毒はたやすくよみがえらせる。

 そしてかみつくように、もう一度わたしの口へ、彼の熱を孕んだ唇が押し当てられた。あらくなっていた呼吸に、空気を求めてわずかに開かれていた唇を葉澄は見逃すはずもない。私が彼を拒む素振りすらしようとしなかったからか、たやすく葉澄はわたしのそれへ、でたらめに舌を絡めた。こうなった以上、きっとわたしたちはゆるされないと知りながら、わたしはひとり先に元服を終えた葉澄の、直衣をまとう背にすがるようにして両腕をまわす。

「おまえは、馬鹿だ」

 やがてはなされた唇に、わたしは喘ぎながらもう一度葉澄を見上げた。

「どうして、わたしを選ぶ。こんな醜聞、世間が黙らないだろうに。おまえの姉君も、父上に捨てられるかもしれないだろう」

「知ってる。けど、それでも」

 そうして「初穂」と、葉澄はまたわたしを呼んだ。
「僕は、君を手折りたかった。いつか、橘の下に招いてくれたときから。ずっと」

 これが身の破滅であると知っているのなら、どうしておまえは。苦しいほどに甘露を孕み、くちづけとともに涙を、毒を、わたしにそそぐ。

 部屋の隅、螺鈿細工の文箱に仕舞いこまれているのは、近々に裳着を控えた (きさい) がねのわたしへと、未だあどけなさをのこす従弟東宮より送られた文。それは父ののぞみの成就の形だったし、わたしの定められた未来への手形で、わたしが葉澄をのぞめずに鎖した想いを封じる錠そのものだった。

 わたしも、おまえが愛しいよ。だが、夢破るなど、許されない。

 そう、喉まで押し出したその言葉を、けれどわたしが発することはついぞなかった。もう一度「ごめんね、秋子」と、初めて彼の声で紡がれた、そして父と、きっと夫君となるはずだった東宮以外には呼ばれる事のないはずだったわたしの 真名(まな) に、ついにわたしの (よろ) えるこころの鎖は朽ちた。

 その枝葉に雨を受け止めるわたしの花橘を視界の隅にとらえて、わたしはとうとう毒を受け入れ、自ら葉澄に口づける。

 いつの日か。わたしは帝の (みめ) として父を、そして父が許すなら、義理の叔父である澄明を、つまりは葉澄をもまた、生涯支えてゆくはずだった。それでもわたしは、愛情という毒を選び取る。かくしてわたしたちは幼い日、花橘のその下で、ふたりで夢見た未来を。手を取り交わした約定の言葉を、花橘の枝とともに、夜の隙間で手折り棄てた。







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