昔々の遠い日に、蝶への祈りでうまれた子供。ぼくらと約した幼子よ。いつかかさねたてのひらを、もうのばしてはいけないよ。こちらをみてはならないよ。もしもふりむいてしまったならば、寂しがりやの祀られ片羽に、おまえは魅入ってしまうからね。
 幾年まえのことだろう。古くよりこの地にある神社の境内、そこにたたずむ桜の木の下で、夏の夜の別れ際に、幼い少女に言った言葉を、ぼくはいまでもはっきりと憶えている。
 すっかり忘れてしまえというのもむつかしい話。なにしろ年月はまだ、両手の指ほどもめぐってはいない。それにぼくら祀られた蝶々にとっての時間というものは、まるでたゆたうようにとても緩やかなものなのだから、交わした言葉はかえって手放しがたかった。
 だからこそ、この去りゆく年月とともにめぐってきた幾度目かの夏の夜に、ふいに彼女のことをおもいだしたのだ。ひろい夜空に降る星屑のきらめき、風にのって聞こえてくる祭のざわめき、そのともしび。かいまみえるあかりにふらふらと寄ってゆけば、いきかう人々の喧噪の隙間にあざやかな色彩をみた。
 浮かれた祭拍子とともにすれ違う人波の中、騒がしい彼らとは対照的に、とぼとぼと歩く少女がひとり。 (よわい) は十四、五ほどだろうか。ぼんやりと、左右の屋台に視線を滑らせることもなくうつむき、からりころりと下駄を鳴らし、揺らす浴衣の袖色は 銀朱(ぎんしゅ) 。黒曜石の目をした彼女は、まさしくあの夏の夜に、ぼくがであった少女だった。
 いつかは背中を覆うほどだった髪も、きっと今は短いのだろう。首筋から上へと流して軽く結われた髪は飾り一つでまとめられ、そこから下へ垂れてはいない。髪というものは存外重い。髪留め一つで留められるということは、いまはもう肩ほどしかないのかもしれない。
 家路をめざしかけてゆく背に踊った黒髪、彼女を見送った時にみたその艶を、ぼくはどこか気に入っていたから、少しばかり残念だった。けれど少女の髪が切られたと、結い上げられたということは、それだけの日々が過ぎたということなのだろう。いつか大人になる日へ向かい、彼女は少しずつ歩んでいる。
 だと、いうのに。
「さみしいなあ」、と。
 思わず転がり落ちてしまったぼくの言葉。もう届かないはずの声を、しかし彼女は聴きとったらしかった。
 からりころりと鳴らした下駄を、ざわめきの中その場にとめて、地面に落としていた視線は、今は中空にさまよわせ。そうやって少女が探しだそうとしているのは、きっと声をとりおとしたぼくだった。
 なつかしいねえ。ひさかたぶりだねえ。ぼくは驚いて、おかしくなって、楽しくなって、はばたき一つでまとった翅を脱ぎ捨てる。あわい景色にとけこんで、ぼくは人の子の形をとって、からりと地面に下駄を鳴らした。彼女と同じように、彼女が見つけやすいように、そとみは彼女と同じ年の頃。揺らす浴衣の袖の色は、片羽と揃いの紺青の (あや)
 祭のなかにまぎれこんで、人波のすきまにするりとわけいる。ひゅうるりふいた風の一陣が、傍らの屋台に並べられた、色とりどりのかざぐるまを廻す。くるりくうるり、からからと。いっせいに廻ったかざぐるまに、彼女がふりかえった。
 ――あれほどふりむいてはいけないと、ぼくは幾度も言ったというのに。どうやら忘れてしまったとみえる。それとも突然のことだったから、咄嗟にそうしてしまったのか。
 どちらかはわからなかったけれど、彼女は少し気を付けるべきだと思った。まだぼくの声が聴こえるというのなら、そして今振り返り、その視線でぼくをとらえているというのなら、なおさらに。黒曜石の瞳が瞬き、彼女はまっすぐとぼくをみた。
 おやまあ、これはまたうれしいねえ。七年前、祭の夜に泣いていた君、夜闇にぼくらと遊んだ君。ぼくは当然変わりなんかしないけれど、でも君だってよくよく見ればその頃と、けして変わりきってはいないじゃないか。
 すらりとのびた四肢だとか、まるみをおびた体はもう幼い子供のものではないが、君のもつ色はいまだって、あの真夜中に見たものそのままだ。真白い首筋にかそけくあわい薄紅の頬。じわりと涙がにじんでうかぶ、真夜中のいろをした瞳。夜風に踊る赤の袖。
 ただ、唇にのるのはあの日のような (べに) ではないね。七年前に出会った時は祭の日だからと特別に、母御にねだってさしてもらったのだと言っていたけれど、今年は自分でのせたのか、淡い桜の色をしてつややかだ。でもそれ以外はまるで変わらない、あの夏の夜の少女がそこにいた。
「また、誰かとはぐれてしまったのかい。その手をはなしてしまったのかい」
 ぼくが彼女に微笑むと、少女はきゅっと唇を引き結んで「そう、かもしれない。置いて行かれちゃった」と、細い声で言った。
「でも、わたしが悪いの。わたしが子供で、ゆう君にわがままばっかり言ったから」
我儘(わがまま) 、か」
「そう。……せっかくのお祭なのに友達と、わたしの知らない誰かとばかり話して、と。私嫉妬して拗ねてわがままを言ったの。だからきっと怒って、わたしのことなんか気にせずに行ってしまったんです」
 ぼくが言葉を重ねれば、少女はぽつりぽつりと話しだした。言葉はまるでながれる水のように。さえぎるものはなく、ぼくだってとどめようとはしない。
 彼女が 心恋(うらご) うふたつ年上の幼馴染と、久しぶりの同道であったこと。りんごあめをねだったり、二人で金魚をとらえようとしたり、最初は楽しかったこと。けれど彼女が連れ立つ悠也という名の少年は、次第に行く先々で少女の知らない友人と会っては話し込むようになったこと。
 祭の中でざわめく空気と仄暗いあかりは、そうしてそんな少年の態度はかえって彼女の不安をあおり。少年と彼女の繋がれていた手と手は、いつのまにか離れてしまったこと。それにも気づかないで悠也はいつしか、片意地をはってうつむきがちに歩く少女から離れ、先へ先へといってしまい……彼女はふいに、おいていかれたこと。
 からりからりと、かざぐるまが回る。ぼくは浴衣の袖を握りしめて言葉を繋ぐ少女と向かい合い、ただその声を聞いていた。幼かった君も、そうか。もう恋を抱く年頃なのか。人の子の生きる時間の流れは、ぼくの想像をこえるほどにはやいのだね。
「ご、めんなさい。わたし、こんなこと急に話し出したりして。でもなんだかその、あなたのこと懐かしい気がして。それで」
 そうしているうちにぼくが熱心に聞いているのにはっときづいたのか、彼女は最後にあせったようにそう付け加えた。
 一度だけ、ぼくはゆっくりとまばたきをする。いつのまにかぽろぽろと嗚咽もなく泣き出していた彼女に、ぼくは一歩二歩と近づいてそっとその髪に手をやった。頬のよこに一筋だけ、あえてはらりと流していた髪をすき、少女の頬にそっと片手をあてがう。
「そうやって、おまえもおとなになってゆくのだね」
 今度は、彼女の瞳がとっくりと見開かれた。すうとまなじりからあふれた涙が、競うようにして頬をつたい落ちる。
「ねえ、蝶子。娘をうしない息子をなくしたおまえの 母御(ははご) が、おまえはどうぞ産まれ出でよと。ぼくらになぞらえ守りとした、願って祈ってまじなって、やしろの桜に真名と刻んだ、おまえの名は蝶子だったね」
 ぼくはもう片方のてのひらも、ためらわずに彼女のあいている頬に触れさせ、その名を呼んだ。まだまだつぼみである少女の、桜色の唇がふるえる。
「おまえのなまえがあらわすのは、おまえを加護しいつくしむ、ぼくら片羽の蝶ではないか。よもや忘れてはいないだろうね。たったひとりで泣かずとも、ぼくらはいついつまでだって、おまえのしあわせを願っているよと。あの日遊んでくれた礼に、ぼくらはおまえに誓ったじゃないか」
 覗き込んだぼくの色彩がわずかに、蝶子の瞳の奥に映った。少しだけ見下ろすように眼差しを和らげれば、蝶子はますますぼろぼろと、その瞳から涙を流す。どうしてだろう、その涙の宿すいろは、さきほどとは違ってみえた。寂しさ、切なさ、やるせなさが、言葉をひとつ紡ぐたびにゆるやかに形を変えていく。
「ぼくらの代わりに生まれいで、ぼくらの代わりに恋をして。ぼくらの分まで、おまえはおとなになってくれるのだろう」
 そう告げるぼくの口元は、うまく微笑めているだろうか。こんなことは久方ぶりだから、不安ではある。泣き止んでおくれよ、かわいい子。
 ぼくらおとなになれずに死んで、蝶となって祀られるこどもたちと、いつか遊んでくれた少女。いまおとなになろうと羽化をはじめて、感情を抱え込んだからこそ涙をながす少女。
 あの日、もう永遠におとなにはなれず、生きることからひきはなされて、幼いこどものままで神の一柱とまつられたぼくらかたはねの蝶々に、幼い約束をくれたきみよ。まぶたをはらして、泣くのはおよし。
 蝶子の口元が、かすかにうごいた気がした。いや、気ではない。頭半分だけたかい場所から見下ろすぼくはたしかに、音にならない声で蝶々さま、と。あの日と同じ呼び名で彼女が、ぼくらを優しく呼ぶのをみた。
 ぼくは今度こそ柔らかに笑んで、少女の頬からそっと両の手をはなすと、するりと指先を宙に這わせた。
「ごらん、蝶子。祀られ片羽の蝶のひとりの、おまえのためのはばたきだ」
 指さす先には、紺青の羽をもつ蝶が一匹。ひらひらとこちらへ向かって飛んでくると、蝶の形をとった同胞は、そっとぼくの指先にとまった。蝶子がその軌跡をさかのぼるように、顔を上げて視線をさまよわせれば、彼女の目にもまるで蝶を追うようにして人波をわり、こちらへとくる少年の姿が映ったのだろう。蝶子の口から驚いたように「ゆう君」と、音がこぼれた。
 そろそろ、ぼくも帰り時かな。ひらりと紺青の袖を振り、一歩大きく踏み出して、蝶子の横をすり抜ける。
「いいかい、蝶子。よくお聞き。ぼくらと約束したきみよ。今宵かさねたてのひらを、懐かしんではいけないよ。かえりみてもならないよ。もしふりむいてしまったならば、寂しがりやの祀られ片羽が、おまえを魅入ってしまうからね」
 それをさいごの言葉として、ぼくはからりと下駄を鳴らした。
 もう一度だけ蝶々さま、と。背中のうしろ、すれ違ったそのむこうから、蝶子のかすれた声がする。それでもぼくはためらわずに、空へとかけだしうすあかりの中、ひいらり翅をひるがえした。
 だってあまりにも、蝶子のまとう生のかおりは鮮烈すぎた。ぼくら生きられなかった幼子の魂にとっては、あやうく焦がれてしまいそうなほどに。
「蝶子、ふりかえったらいなくて。ごめん、俺、もっと気を付けてればよか―涙、どうした」
「だいじょうぶ、だよ。なんでもない。ねえ、お友達は」
「別れたよ。蝶子がいないのに意味ないだろ。なあ、おまえ、もしかして怪我とかしたのか。どこか痛いか」
「ちがうの。あのね、すごく懐かしい子にあったの」
「でも会って泣くって、そんなに嫌な奴だったのか」
「そうじゃないの。小さい頃に迷子になったときに、いっしょに遊んでくれたの。もうあえないと思っていたから。それで、びっくりして、うれしくて。それだけだから、大丈夫だよ。ゆう君」
 はばたき去ったそのうしろから、追いついたのだろう少年と、惑った少女の声が聞こえた。祭のざわめきの中だというのに、やけにはっきりと。奇妙だったけれど、それでもいいと思った。なにせこの夏の夜は、死者のかえる祭なのだ。そして未完成な片羽と呼ばれてさまよう、蝶となった子らのための祭。不思議の数とて、両手の指ではきっとたりない。
 けれどそろそろぼくらもゆるりと、あるべきところへもどらなければいけないね。
 夜空をかけて、すまいへかえろう。ぼくらはぼくらの、家路をいそごう。
 祀られ神と人の子との、昔々からいまへとつづく、約束文句にしたがって。けっして振り返りはせずに。





かたはねまつり








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