こどもの階下


 



 そっと貴方にキスをした日、幼い日々は終わりました。

 姉上と、僕と、貴方と。三人で集ったお茶会の席で、僕は無邪気に貴方の頬に口づけた。僕を見守る目のすべてを、聡く盗んだ気になって。そして「だって僕はメグ、貴方を愛しているから」だなんて、戸惑った貴方に返してしまった。そのままお茶会はお開きになり、僕は部屋に返されて。それが、僕を囲んでいた優しい世界の幕引きでした。

 終わりの報せはそれから半刻もした頃だったでしょうか、珍しく夕刻に僕を訪ってきた姉上がもたらしました。常に行動を共にしている貴方を、その時ばかりは姉上も伴わず、伴なえず。

 いつもは優しい姉上も、その時ばかりは厳しい言葉を使われました。朝になったら貴方は屋敷を出されるのだと、郊外の館へ発つのだと。それは幼い僕の所為で、僕が貴方を慕ったから貴方は遠ざけられるのだと、姉上は仰ったのです。

 社交界でも評判の令嬢である姉上のお顔は、泣きぬれてさえも美しかった。けれど僕には姉上より、何時か垣間見た貴方の微笑む様の方がよほど好ましく感じられました。つまりは、そう言う事なのです。幼い僕が姉上から、友であり、従者であった貴方を奪ったのです。

 僕は幼い恋をしました。けれど僕らの住まう屋敷から貴方を遠ざけたのは、僕が貴方に抱いた恋情ゆえでした。ですから兄上が貴方に荷物をまとめさせた日、貴方を姉上から、この屋敷から、そして僕から遠ざける事を決めた兄上は酷いお人だと声を荒らげもしました。理不尽だと、その時は心底思ったのです。なにしろ僕は貴方に憧れ焦がれただけの、何も知らない子供でしたから。僕達も貴方も、既にそれぞれに二人親を亡くしているからこそ、兄上は温情で貴方を解雇には追い込まなかったというのに、僕はその兄上を責めたのです。

 けれど貴方が屋敷を去って、何年もたって、いつしか僕も大人になって。そうやって時を経て初めて、僕は僕の行動の意味に気づきました。僕は理不尽に奪われた者ではなく、無知であったとはいえ紛れもなく奪った者であるのだと。その現実を知って初めて、僕はあの日以来疎遠だった姉上に謝罪をしようと彼女を訪い――戸惑いながらも迎え入れ、僕の言葉を聞いてくださった姉上に、またも告げ知らせられたのです。

「ねえ、エディ。兄上には、この事は秘密よ。メグはね、四年前に亡くなったの」

 こっそり文通だけは続けていたのよ、私達。彼女、あなたの事も心配していたわ。あの事は誰が悪いというわけではなかったから、幼かったあなたが傷ついてはいないかって。エドガー、あなたの事はメグも弟みたいに可愛がっていたものね。……彼女ね、あの後しばらくして、貿易商と結婚したの。それで初産を迎えて、でも難産で。子供は生まれたけれど、メグは亡くなってしまった。

 そう続ける姉上の声を聞いて、まるで刃が心の臓を抉ったかのように錯覚した僕は、まだメグ、貴方に焦がれたままなのでしょう。優しく、愛らしく、そして儚かった貴方に。姉上の侍女であった、僕とは住む世界の違う階下の貴方に。

 あくまで使用人である貴方と、貴族の子弟である僕との間には、明確な境界が敷かれていました。言うなれば階上と階下。階段で仕切られたそれは、何百年も人々が保ってきた、不可侵でなくてはならない境界線でした。

 幼かった僕はたやすく境界を踏み越え、貴方に恋をし、それを伝える事で貴方を離職に追い込んだ。けれどメグ、もしも貴方の父君が生きていたなら、僕は遠縁の令嬢である貴方に恋をしても、想いを伝えても、こうして貴方から奪う事はなかったのでしょう。もしかしたら、堂々と貴方に求婚することだってできたかもしれない。

 でも現実は違った。貴方は不運にも父君の死によって、生活の為に姉上の侍女となっていたし、僕は愚かにも身分を知らず、そして同時に幼かった。

 呆然と目を見開いた僕に、姉上は一枚のカードを渡してくださいました。僕は姉上にいとまを告げると、すぐに御者にカードの住所へ行くようにと指示を出し……今こうして、貴方の眠るこの場所に立っているというわけです。

 手向けの花もなく、それ以前に結果的に貴方を居場所から追いやった僕が何をと、もしかしたら思われるかもしれませんね。でも、メグ。僕は貴方に伝えたかった。もはやそんな事も出来ないのでしょうけれど、僕自身の為の誤魔化しかも知れなくても、それでも。

「ごめんなさい、ありがとう。――おやすみなさい、レディ・マーガレット・フェラー」

 あの時、間違えてしまって。それでも僕を気遣ってくれて。今でも愛しているけれど、でもその言葉だけはこころの奥底に閉じ込める。僕だからこそ、もう言ってはいけないと思った。

 そっと貴方にキスをした日に砕かれた、それでも必死に拾い集めて抱きしめつづけた、少年時代の眩い憧れに、僕は固く封をする。こうして大人になった今、僕の為にも、貴方の誇りの為にも、僕らの家族たちの為にも、願うのはもはや初恋の成就であってはならないのだから。








 女王の治世下、霧の都。これは、ある若い紳士がまだ幼かった頃、かつては淑女であった侍女へ抱いた、幼い憧れと初恋の顛末である。











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