嬉しい報せを懐に抱え、私は二十五年と三カ月ぶりに、ウァールラウドの赤い森へと踏み入ったのでした。
 先日初めての子供を産んだ娘を、久しぶりに訪う旅です。五十も越えて徐々に老境に入り、長年の苦労に少しずつ衰え始めた足腰でも、遠路は苦になりません。それにあえて私は道中、懐かしいこの森を再び訪れる経路を選んだのです。この旅の途中赤い森を抜ける事は、私の長い漂泊の終わりを意味してました。疲労を感じる暇すら惜しかった。
 楓の群生する赤い森は、ここ中欧の情勢がなお不穏渦巻いていた頃、連合や枢軸といった大国からすればとるにたりないカレルキアという小さな王国が、国土の境界としていた場所でした。けれど今では国境線は遠く退き、同じ名前の幼い国が、違う主権のもと生き残るのみ。私達の故郷は、とうに時勢に剥奪されてひさしいのです。
 この森で孤児として、何人もの兄弟姉妹達と共に育った、十代の日々。
 この森を駆け抜けて、大事に慈しむあなたと故国を逃れた、離散の夜。
 この森の奥どこかで、きっと戦い死んでいった、彼の人の声の色すら。
 愛しい全てが過ぎ去った今、私はもう一度だけ、赤い森に帰り来たのです。
 赤い森は人の手で整えられ、様変わりしていました。近年敷かれたらしい小道は、森向こうの駅舎へと蛇行しているはずです。乾いた空気のそよぐ中、くつろぐ人影も見受けられます。穏やかで、安らかな光景でした。
 半世紀前の最初の大戦で父を亡くし、やがて母を亡くし、高揚した戦後の路上に放り出された幼い私は、著名な慈善家であった養母に引き取られました。そして彼女を母様マトカと慕い、赤い森の奥で数人の孤児達と共に育てられたのです。小さなヨハン、ヤロスラフ。お転婆だった弟達。ヤナ姉さんは料理上手で。いつも私と競いつつも、相対するように信頼を寄せあった一歳年上のアロイスは、とても賢い少年だった。おしゃまなぺトラの金髪を結ってやるのは、ずっと私の役目でした。
 そんな懐郷を胸に歩みつつふと前を見れば、木立のかたわらには特徴的に枝うねる楓の古木が、凛と生えぬいていました。優しい思い出の形そのままに、けれど時を経て、懐かしい楓はまだそこに佇んでいました。
 幼い日々、他と見分けられるほど親しんだその樹の根本は私達の遊び場でした。けれど私が憶えた二十五年前の迷いを、この楓だけは知っているのです。年を重ねた胸の奥で、動悸が増しました。
 祈るように目を伏せた私の遠い記憶の残像が、あの時とは身につけている服も、時代も情勢も、年を経て己の容姿すら変わってしまった今になって、きつく呼び覚まされました。



 スヴェトラナ・イェリネク様

 愛しいスヴィータ。僕らイェリネクの、たった一人の朋友である君へ。
 ……どうか、僕ら孤児をこれ以上生み出しはしないと誓った、母様マトカの誇りを踏みにじる僕を、ゆるさないでください。生涯、お願いです。ゆるさないで。
 けれどスヴィータ。君への親愛を信じ、この手紙を綴ります。
 僕は孤児を一人、捨てます。不憫な娘です。憐れな子供です。ですがこの子を守る手段は、もう限られているのです。
 この子の戸籍は、可愛そうなぺトラの娘として整えました。僕らの妹の名を、こうして死後借りることを謝罪します。けれど猶予が無いのです。
 どうか君に、僕が手放した孤児の赤子を引き取ってほしい。頼みます。彼女の安全の為に。スヴィータ。お願いです。愛しい僕の妹。君だからこの子を託せる。もはや二人きりになってしまった家族としての絆と幸せを、どうか僕ではなくこの娘に与えてやってください。
 懐かしい赤い森の奥深くで、僕達が育まれたように。

 愛を、こめて。
 そして同封した君とこの娘の旅券でもって、早急なる西への旅を願います。     一九五〇年七月 アロイス



 首都を満たしていた激しい銃声と衝突は、今はやんでいました。
 私はぐずる赤ん坊をなだめる時も惜しんで、逃亡の準備に奔走するしかありません。
 やがて私はかき集めた用意を強引に逃亡用の鞄に詰め込むと、簡素な寝台に寝かせたままの赤ん坊を抱きあげました。
「お願い……どうか私達にご加護を」
 まだ名前さえあやふやな彼女を、シーツで念入りにくるみ、恐る恐る抱きあげて。あたたかで頼りないその感触が胸に触れた時、私はおざなりな覚悟を決めたはずでした。
 高名な将官に引き取られていって以来会えもせず、ただ便りだけは交わしながらも、道を別っていた私の兄弟。今はアロイス・エルベンと名乗る彼が結婚して以来、二年ぶりの音信が届いたのは、昨夜の深夜の事でした。
 それは彼の使いだという軍服の男から、確かに彼の筆跡と署名の手紙と旅券、今私が抱く小さな赤ん坊を強引に託されるという、らしからぬ物でした。しかも、赤ん坊の旅券には過日亡くなったイェリネクの妹の名が生母として記されていながら、手紙にはその身元すら偽りだと仄めかされていたのです。
 家族からの便り一つで、私に育てるよう懇願された身元も不明な子供。繋がりは頼りなく、この子を連れて逃げる意思を固めるのは、安易ではなく。
 それでもとにかく首都を離れなければ。生き延びなければなりません。
 家財は部屋に捨て置き、夜陰に紛れて慎重に街を駆け抜けました。曲がり角を越える度、市民と衝突を繰り返していた軍の存在を恐れました。夜半の街でかいまみる人影に身は竦んだけれど、その大半は改革を叫ぶ若い市民でも、彼らと相対する国軍の兵士でも、どうしてかこの午後からたむろしている他国の軍隊でもなく、同じように事態に怯える同胞達であるようでした。
 はやく。急がないと。幸いにして赤ん坊は、夜風の中微睡みだし。眠る子供の重さは増したけれど、泣かれるよりはましでした。
「西の大通りは封鎖されていた。列車も難しいだろう、検問が――」
「なんてこと、王族方は?」
「わからない。脱出されたか、もしかしたら囚われたかも」
「じゃあ。それじゃあ私達への助けは? 北東国の兵士だっているじゃない、きっとまた侵略だわ――ねえ、誰か私たちを、王国を助けに来てはくれるの? 来てくれるつもりは、あるの――?」
 街角で囁かれる声は、動揺を孕んで爆ぜそうな、突き刺さる不穏に満ちていました。皆、王国全土を理不尽に占領された二度目の大戦の惨禍を憶えているのです。逃亡に躊躇はないようでした。私だってそう。騒乱の中、身の振り方を決めるのに悩む猶予はありませんでした。
 私は身を翻すと、足音を響かせないよう苦心しながら石畳を郊外へ走り抜けました。夜の闇が私達を隠してくれる事に期待して。
 一路、列車での逃亡に活路を求める人々の流れに逆らって、私は南への道を何時間も懸命に辿りました。途中ぐずりだした小さな赤ん坊に、ごまかすように水でパンの欠片をふやかして与え。未婚の私に乳は出ません。この子供に今私が与えられるのはそれが精一杯でした。
 日付が変わった頃、街道を車で逃げていた老夫婦が子連れの私に声をかけてきました。南東にゆくという彼らの逃亡車に同乗でき、情報すら得られたのは本当に幸いでした。
 この騒乱は、老婦人によれば戦後の復興の遅れについて抗議する市民たちの蜂起が発端らしい、という事でした。最初は若者や学生が中心になりデモ行進をしていて。軍はそれを抑制していて。けれど突然、群衆の中から発砲がおこって。昼下がりには銃撃戦が始まり、声高く『革命』が謳われたのだと。王家と軍部は先の大戦以降癒着し、議会とは足並みを揃えられずにいたようで。王族への国民の親愛は篤いと感じてきたけれど……一度帝政を打倒した東側の大国の思想は、世界大戦を機に随分流れ込んでいたらしく。王族方すらこの動乱に巻き込まれたという話でした。
 なにせ他国の軍すら国内を闊歩していたのです。噂されたのは、我々の国の混乱の烽火は、他国の介入を許しすらしたのではという事でした。
「どうなって、しまうのだろうか」
 別れ際、始終車を走らせるのに集中していた老人が呟いた言葉が、脳裏から離れませんでした。
 夜道をゆくのに使えるだろうと、ランタンを譲られおろしてもらってから、私は再び歩き通しました。もはや高ぶった神経は疲弊していましたが、感覚のない腕で赤子を抱いて、ゆくしかありませんでした。
 それでも妙に思考は冴え、積まれた疑問を私は歩調と共に解いてゆきました。
 アロイスはどうして、私に手紙とこの赤ん坊を託したの?
 少なくとも動乱の悪化は予期してはいたのかも。でなければ、こんな強引な事はしないはず。私だって平時なら、知らぬ赤ん坊を抱いて逃亡の道をゆかない。
 でもなぜ身元を伏せて私に預けたの? 本当に孤児なの?
 逆に考えるの。この子の本当の身元を知るアロイスの周囲の人間に、この子は託せなかった。公には交流の薄い、けれど縁の濃い私に、この子の足跡を断つようにして託した――守る為に。
 めまぐるしく考え歩み、やがて私は道をそれました。火影に浮かび上がる馴染ある風景は、イェリネクの孤児達を育んだ赤い森だと気付いたからです。
 不思議に鋭い直感を信じた七月の星空の下、懐かしい森の香に涙が出そうでした。
 けれど涙を思い出したのは私のみならず。
「なんでっ、もう、嫌よ、やめてよ……!」
 ふらつきながら距離を歩いた頃、不意に赤ん坊がぐずり始めました。おしめなら車の中で変えました。この子に与えられる食料はもうありません。あやす気力だって。
 途方に暮れて座り込むと、泣き声は更に増しました。やめて。私だってもう泣きたい。
 思えば、アロイス。私もあなたも、二度目の大戦の最中苦しみぬき、友人や知人を、何より母様マトカと兄弟姉妹の大半を亡くしてしまった。王国が占領下にあった間、あなたは養父将軍に従い他国へ亡命し、連合軍の戦線で戦ったと聞く。そして国土奪還作戦で華々しい戦果をあげた。カレルキアに留まった兄弟姉妹たちの内生き残ったのが、私と妹の二人だけだと知って、随分乱れた文字で何通も手紙をくれましたね。あなたが養父の思惑で王族筋の姫君と結婚してからは、それもまばらになったけれど。それからの栄達も、娘が生まれて父親になった事も、折々に知ったわ。ペトラが死んでからは、たった一人となってしまった私の家族。
 けどもう、あなたの事がわからない。私達の絆さえ、この小さな赤ん坊に譲るだなんて。こんな酷い話があるものですか。
 泣き声が、わんわんと反響するように梢に響きました。――そして。
 いっそこの子を赤い森で手放したら。そうしたら、アロイス。代わりにあなたは戻って来るかしら、と。
 そんな、整合性もない愚かな事を、私は一瞬、考えた。所詮覚悟はおざなりだったのです。高ぶった神経では、それは捨てがたい選択のように思えました。
 長い事、腕が震えました。喉がかすれました。その渇きに、だけど、と。幸いにして、私は思い至りました。
 ねえ――身元を明かせない、アロイスが守りたがる赤ん坊。この子は、誰なの?
 すぐに意識は研ぎ澄まされ。私は咄嗟に思い当たってしまった可能性に、伏せていたまぶたをあげ、どれほどそうしていたでしょう。じっと赤ん坊の涙を眺めながら、やがて私はもしかしたら、と悟りました。
 アロイス。あなたが守ろうとする、私に託したこの娘は、もしかしたら愛する家族である、あなたの?
 ……いいえ。いいえ! たとえ、真相がどうであったとしても!
 私は咄嗟にランタンを掲げました。顔をあげ、道行きを照らし前を見ました。
 この子がまさに彼の娘である可能性に思い至るよりもなお、彼のこの子を守ろうという意思を思い出したのです。理性が舞い戻ってきました。絆の所在よりも大事なのは、私を信じる家族の願いに、応えなくてはという思い。
 今しがたの恐ろしい考えに比べれば、腕の中で再び微睡みだしたこの子と共に故国を離れる逃避行に発つ不安は、些細な物に感じられました。
 愚かな自分を叱咤して、私は満天の星空を強く見上げ立ち上がりました。ランタンの灯は、特徴的にうねる楓の枝を夜空に照らし出していました。その見覚えのある大枝は、かつて私達イェリネクの家族が愛した楓の物だと咄嗟に確信しました。
 星の位置を確認すると、私は慣れ親しんだ森の中へ再び踏みだしたのでした。楓の下を通り過ぎる間際、一度だけ故国を振り返ったけれど、立ち止まりはしませんでした。
 そして私が、故郷であったカレルキア王国へ帰りつく事は、二度とありませんでした。
 もう、戻る事はないでしょう。戻ってはゆけない。
 決して、決して同じ場所に同じようには、帰れなどしないのです。



 かくてカレルキア政変と呼ばれた動乱から、二十五年と三ヶ月の月日が、ウァールラウドの赤い森と、私達に降り積もったのでした。
 枝うねる楓の樹を見上げれば、十月の風は頬を撫で、白髪の多くなってきた、きつく纏めた私の髪を少しほつれさせました。
 私達の他にも多く同胞が亡命した民族離散の夜、私達が混迷する時勢をふりきって安全地帯へ辿り着き、隣国の赤十字に保護されている間に、混乱にはけりがつき。
 故国は全く異質な思想主義に下り、政権は急速に交代し、領土は割譲され、カレルキアの王族たちは落ちのびた先で今なお延命する亡命政府を樹立して、東西の軋轢は増しました。
 かの政変について、私は正式に養女とした「姪」を育てながら、情報を求めて活字を読み漁りました。
 そして目にしたのは、アロイス。政変の終息間際にあなたが命を落としていた事。逃亡を試みた王族筋の幾名かと共に、ウァールラウドを亡命経路に選んだ彼は、けれど赤い森で逃避行を阻まれ銃弾に倒れたと知りました。
 共に育った全ての兄弟姉妹を、私はとうとう、残らず亡くしてしまったのでした。
 それ以上を、亡命者である私は知りえません。故国と彼の死の詳細を追うのを諦めたからです。なにせ「おば」である私を母様マトカと慕う彼女は、成長するごとに懐かしい面影を見せるようなった。そして同じくらい中欧の情勢は、大国間の鉄のカーテンに仕切られ不安定さを増し続けているのです。
 稀有な血筋の令嬢であったアロイスの奥方も、私達が暮らしを落ち着ける前に亡くなっており、彼女達の息女は公的には「未だ行方が分から」ず。
 もし私が育てた娘が政変後そう時経ず、エルベン夫妻の娘として周知されていたなら、彼女は混迷の世情に引き絞られる火矢となった事でしょう。いずれ戦火に繋がる、亡命政府の為のどこまでも効果的な情報戦略に利用されていた。アロイス・エルベン少将とその奥方は、まさしく大衆の反応を煽る、プロパガンダには有用な来歴や血筋、権力との縁故を持つ夫婦でしたから。
 しかしどれほど悩もうと、私は我が手で育てた愛娘を動乱の渦中に手放しはできなかった。
 亡命政府の凱旋の嚆矢は掲げられず、時機を逸するまで秘され、そして墜されゆくのです。あの手紙で願われたように、私も娘に幸せ以外を、もう与えたくはない。
 充分な時と共に愛しい楓から視線を外し、私は森を横切った先、乗り換え先の駅舎を目指して歩き出しました。
 列車に二時間も揺られれば、娘の住む街へ辿り着く。そこでは生まれたばかりの孫を抱き、家族が私を待っています。
 ねえ、アロイス。願わくばどうか穏やかに、老いた私がイェリネクの家族達に再会する日を待っていて。
 たとえこれが、帰郷を切望する我々カレルキアの同胞全てへの裏切りであろうとも。あなたに遺棄された絆の代わりに、あなたから守るよう託された彼女を、私はもはや衝動のままに手放す事も、火矢として掲げる事も、決して二度と、我が身にゆるしはしないから。

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